メモの見出しをメモとする

メモなんだから

せちがらと言っておけば

 

バイト先のかつての先輩で明るく楽しいやつがいた。彼はおそらく自身の居ても立っても居られないという特性を理解して、それを受け入れて何なら愛しとてもうまく立ち回っていた。いい生き方だなあ〜と心底思った、そんな彼に最も軽蔑されて然るべき万物への諦めの姿勢を悟られまいと頑張りながら観察を続けていたけど、眩しくなって逃げた。彼を慕う後輩がバイト先にいて微笑ましい。幸せを求めて邁進する人たちには本当に幸せでいて欲しい。

また別タイプの人が入ってきた。変わってるね〜で周囲に浸透して行くかと思いきや、ちょっと流石に許容値というものをオーバーしつつあるらしく最近干されの気配がある。

何で言葉を選んでたかは分からないけど、まあ言ってしまうと前者の先輩はADHD、後者の後輩はASDの特性が本当にお手本のように出ている。お手本すぎて驚く。そして何より驚いたのが、定型の人達の生活にADHDとか ASDなんて概念は用いられないので彼らの行動や思考が「訳の分からないもの」として映る。そして話の通じなさや察しなさ、反省や自省のしなさに指導する立場の人は大きなストレスを感じる。
それらの構造を理解して見ていると、本当に心底消えてぇ〜という気持ちになる。何故ならADHD以上にASDは治しようが無いから。
ASDの人にストレスを感じさせられる定型の人は、割りを食わされているのだとこれまで思っていた。そして私は割りを食わせているのだとも思っている。だから本を読んで自分のコントロール方法やどうすれば人を不快にしないか、というのを学んだりしてみる。私はそれで良かったと思っている。
でも、人をいらいらさせてそれに気付かずヘラヘラしているように見えるASDの人は、それとは別の場所で神経をすり減らし難易度の高いマルチタスクに息も絶え絶えになりながらそこに立っている。
これまでは「先輩をすり減らすな……自省しろ……己を呪え……」とばかり思ってたんだけど、最近シフトが被る機会が多くなって彼もまた必死なんだよなと端々で感じるようになった。あと私も私を棚には上げられないし…(2人揃ってイレギュラーに対処できず先輩を酷い目に遭わせた前例アリ)
彼はよく本当に大きな溜息をつく。発声も伴うので、確かに耳に付くタイプの溜息だと思う。それを咎められるシーンがあった。多分呼吸が出来てなくて大きな深呼吸くらいの感じで、そこで声が出ちゃってるんだろうと思ったのでフォローしておいたがそれを指摘した人も同じ場所にいた。私はどう立ち回ったらいいんだろう。
だって、治らないんだもん、ASDって。
就労に当たって、己を呪えというメソッドと強迫観念を植えてあげるべきなんだろうか。でもそんなの、感じなくていいなら感じることなんてなくてもいいんじゃないか。

 

就労は難しい。アルバイトごときで、と思われるとは思うけど。そして皆大変なんだぞと言われると思うけど。それでも、やっぱりADHDASDが就労するというのには困難が伴うと思う。それでも…(泣いている)